モアレをつくる
著名な写真家の弟子になった友人が、テーマを出されて写真を撮りに街へ出かけました。朝から夕方まで歩き続けたけれど満足のいく写真は一枚も撮れず、疲れも重なって歩くことができなくなってしまいました。力なく道端の縁石に腰を下ろしてひと息入れたそうです。そして、顔を上げると眼前にその風景が広がっていました。渾身の一枚が撮れた日の話でした。
今から思い返すとこの友人のように、私はデザインする時にはいつもアイディアが出ずに苦しみました。しかし苦しんだ後に、偶然のようにそれは現れました。苦しむのだけれどたどり着いてしまうと、またその道を歩んでいます。ものづくりには不思議な魅力があります。
『解説 般若心経』の装幀を手がけた時も全く同様の苦しみを味わいました。この時も「偶然」のようにその瞬間が訪れて「モアレ」と出合う事ができました。
ゴミ箱の手前の面と向こう側の面の重なりがキラキラ輝いていて、それが音の重なりのようで全身が熱くなりました。
今回は当時を思い出しながらモアレを再現してみる事にしました。当時、使用していた道具も材料も無いのでMac(Illustrator)での作業です。
ゴミ箱のメッシュは手前が下に、奥が上にカーブしています。ドキュメントに円弧を描いて複製し、重ね合わせます。
円弧のカーブは緩やかな方が良さそうなので大きな円弧を描きますが使用するのはほんの一部です。
illustratorには便利なツールがあります。「同心円グリッドツール」です。マニュアルによるとそのツール使うと数分で同心円が描けるというので使ってみることにしました。
日本と欧米文化の違いを克服する
瞬時に同心円が描けるというので小躍りして喜んだのも束の間のことでした。Illustratorの同心円グリッドのオプションパネルの設定でつまづいたのです。
私が描きたい同心円は「線幅」2mm、「線と線のアキ(間隔)」が2mmです。大きさ(同心円のサイズ)は円弧を緩やかにするためにはできるだけ大きいものがいい。半径がA3~A2用紙に入るくらいのものです。
ところが、このパネルでは円の大きさと線の本数を決めることはできても、私が希望する「線幅」と「線と線のアキ(間隔)」を入力する欄がありません。困りました。
この時、Mac 導入間もない頃の編集ソフトを思い出しました。
すでに30数年前のことになりますが、当時の編集ソフトは欧米のソフトを日本版として直訳したようなものでした。
例えば「本文組体裁」を設定する時、最初に出てくるのは天と地、小口、ノドのアキの設定でした。つまり、最初に本文の入る箱の大きさと位置を決めなさいということです。これは、行間や字間を厳格に設定しなくても良いということを示しています。文字は字体とサイズのみの設定でした。
私が活字や写植で経験してきた組体裁をつくる時は、字体と文字のサイズを決め、字数を決め、行数を決めました。その結果、箱の大きさ(版面)が決まり、天地左右のアキ量を決めて紙面に配置するというのが順序でした。
つまり、細かい部位から決めていって、その結果大きさが決まるというものです。しかし、外国のソフトは大枠を決めて、次にフォントサイズを決めるので入る字数や字間はおまかせなっていたのです。
それができるのは欧文だからなのです。欧文には「字間」「単語間」という調整可能なスペースが存在するからです。加えて、欧字は漢字のように字間が気になるような形ではありません。
日本の文字は活字にする際には四角形の中でつくられていて、字間を適当に広げたり、狭めたりすることを前提にはつくられていません。文書によっては字間を広げるケースはありましたが、詰めるということは活字を削ることになるので通常は行いません。
最近は、PCで本文の組体裁を行うには InDesign という日本語をターゲットにした優れた編集ソフトがあるので、デジタルが日本文化に適応してきたと言っていいと思います。
しかし、Illustratorのこの「同心円グリッド」という機能に出合った時、再び文化の違いを目の当たりにすることになりました。
上で述べているように円の大きさと線数は決めることができても、線と線のアキはお任せになっているのです。
つまり、ここでも外側から数値を決めていって、細部は「なりゆき」になっているのです。
ナイフを使う時、アメリカでは外から内へ、日本では内から外へ向かって削ると聞きましたが、生活習慣からか肉体的な何ものかが、そうした違いを生じさせているのでしょうか。とにかく、文化の違いに戸惑うばかりです。
とは言っても、ブログを書き進めるには同心円が必要です。そして、なんだかんだ言っても、同心円を瞬時に仕上げることができる「同心円グリッドツール」には魅力があります。何とか、このツールで思い通りの同心円を描けるようにならないか、あれこれ試してみることにしました。
試行錯誤を重ねて二日。ようやくその方法を見つけました。詳細は別の記事としてアップしたのでそちらをご覧ください。
「線幅」と「線と線のアキ」を任意に設定する
「線幅」と「線と線のアキ」を任意に設定して同心円を描く方法の詳細は「[Illustrator]同心円グリッドツールの使い方 ~線幅とアキ(線と線の間隔)を任意に設定して同心円を描く方法~」を読んでもらうとして、ここでは簡単に説明しておきます。
「同心円グリッドオプション」の入力欄で、サイズは空白にしおいて、先に「線幅」と「線と線のアキ(間隔)」を決めます。
次に、それらを加えた数値(線幅+線と線のアキ)の倍数を円のサイズ(直径)として「幅」「高さ」に書き込みます。
線数は半径(円のサイズ÷2)÷ストローク(線幅+線と線のアキ)-1
で得た数値を書き込むと、「線なし」の状態の同心円ができます。ここで最初に決めておいた「線幅」を入力してあげると、自分の決めた「線幅」と「線と線のアキ」で同心円ができあがります。
上の方法を使用すれば偶然にそれができるという曖昧なものではなく、機能をコントロールして同心円を描くことができます。
PCを使用していてよくあることですが、マニュアル通りに行なえば一定の結果が得られます。しかし、できたからOKというものではいけないと思っています。
大切なのは「どうしたいのか」という思いであり、それを偶然ではなく思いのままにコントロールできて、初めて道具は活かされます。それができるようになるには、「思い」とそれに「こだわる強さ」が必要です。それがないと、人は与えられたものの限界を超えることができません。
円弧と円弧のモアレを試す
上で得た計算式を使ってサイズ(直径)720mmの同心円をつくりました。その後、同心円を複製してモアレを再現してみました。720mmという数値に確かな根拠はありません。
今は装幀に使ったモアレを知っているので、上のモアレはちょっとイメージとは違ったものに思えますが、当時はこれはこれで「いい感じ」だと思ってワクワクしていました。
ただし、自分の頭にはもう少し柔らかなイメージがあったので一方のカーブ(同心円)を直線にしてみることにしました。円を大きくすれば弧は限りなく直線に近くづくので、緩やかなモアレになるのではないかと推測しました。
直線の縞模様の「線幅」は一定にしておいて「線と線のアキ」を少しずつ狭くしすることでモアレの変化の具合を確かめたかったのですが、当時は手作業なので相当な時間が必要だと思いました。急ぎの仕事が山積していたので焦りが出始めていました。
そんな時、出入りの写植屋さんから「できますよ」と朗報がありました。
当時の写植機もようやく完全デジタル化へ向けて実用化が始まっていて、写研が開発した「サプトン」という電算写植機は細かい設定で線が引けるというものでした。そして、出入りの写植屋さんがそのサプトンを導入したというのです。私は小躍りしたい気分でした。早速、「線幅」と「線と線のアキ」の数値を書き出してプリントしてもらいました。
ここでは線の入る天地幅を一定にしておいて線数を変化させました。従って「線と線のアキ」はなりゆきになっています。
上のような縞模様を出力してもらいました。その数は10数種類でした。これを手描きにすると相当に時間がかかりますが翌日には仕上げてきてくれました。
私は、手描きの同心円をトレペにコピーして、それをサプトンから出力されたボーダー(縞模様)に重ねました。するとそこには計算以上の出来でモアレが生じていました。またしても小躍りして喜びたい気分でした。
ようやく入稿のメドがたち私は落ち着きを取り戻していました。当時、週一でしか帰宅できていなかったのですが、その日は何の心配もなく帰路につくことができました。
私の自宅近くの清瀬駅までは池袋から各駅で40~50分間かかります。いつも座るとすぐに寝てしまうのですがその日は興奮で目が冴え切っていました。江古田を過ぎた辺りだったでしょうか、10~15分くらい揺られた辺りで胸騒ぎがありました。いろんな仕事を同時進行していたのですが、全てを指示し終えての帰宅なので問題はないはずでした。しかし、その時はっきりと胸騒ぎがしたのです。
胸騒ぎの正体は間もなく分かりました。「モアレ」が直線的過ぎることでした。私は数値で計算したものが計算以上の形になったことで舞い上がっていたので、心の隅にあったそれを見て見ぬ振りをしていたのです。
しかし、数値は動かしようがありません。これ以上、何をどうすればいいのか、できることは全てやったという思いがありました。しかし何となくは分かっていたのですが、それを受け容れるには疲れ過ぎていました。胸騒ぎは最初に戻ることを示していました。
この日できたモアレを使えば翌日から装幀にとりかかれます。目の前のモアレも出来が悪いわけでは無く使用できる範囲の完成度でした。モアレ作成で予定の時間をオーバーしていたので、しばらく葛藤がありました。
しかし、気がかりなことはその時に向き合わないと後悔することがあります。成功のメドはついていませんが、原点に戻ってボーダーを手描きにすることにしました。次の日も徹夜になることを覚悟したのです。
翌日、出社するとすぐにボーダーを描き始めました。サプトンで一番いい本数のものが分かっていたので、それを烏口を使って描けば良かったのです。
そして、描きあがったボーダーの上にトレペにコピーした同心円を重ねました。すると、思い描いた「響き」が現れたのです。
電算写植機で描いたボーダーで出てきたモアレは直線的なものでしたが、直線、円弧の両方を手描きにしたモアレはまるで木肌の杢目のようなふくよかさを現していました。それは、
「聲明(しょうみょう)」
にも似ていました。