温故知新!アイディアのヒントが得られるかも…

本のデザイン 〜ボクシングトレーナー、エディさんの声を描いてみた 【出会い編】〜

「言葉」は魔法を使うときの呪文のようなものです。ひと言で人を不幸のどん底に陥れたり、幸福の高みへと誘うことがあります。今回はそんな言葉にまつわる本つくりの話です。

オーケー!-ボーイ_01
『オーケー! ボーイ』 ーエディさんからの伝言
発行日:2005年2月25日
監修:百合子・タウンゼント 発行人:今野昇 編集人:大塚真理子 発行所:株式会社卓球王国
写真:髙橋和幸 造本・描き文字:島津義晴 取材・本文構成:松尾憲曉 
DTP:伊藤文治(B’s) 印刷所:シナノ印刷

こぼれ出たひと言に勇気をもらう

私の事務所が現在の場所に移ってきたのは1985年の12月。新宿の街はクリスマスソングとイルミネーションに溢れていました。カメラマンのT氏もほぼ同時期に近所に事務所を開いたようです。しかし、この時はまだお互いに知る由もありません。

T氏とは雑誌のカラー口絵の仕事で出会いました。口絵は16ページくらいのもので写真原稿はT氏が届けてくれました。
「熱いエネルギーを放っている人」というのが第一印象で、私はしばし圧倒されていました。
しかも、その彼が持ち込んだ写真原稿は使用するカット数の何倍もあり、それも4×5(シノゴ)サイズのフィルムであることに驚かされました。当時の取材写真原稿のほとんどが35mmフィルムが一般的だったからです。

35mm4×5フィルム_大きさ比較
【35mmフィルムとシノゴフィルムの大きさの比較】 1980年代になるとフィルムの性能は格段と良くなり、取材写真は機動性に優れた35mmの一眼レフカメラ(35mmリバーサルフィルム)が使われるようになっていました。 シノゴ(4in×5in)サイズは35mmフィルムとの面積比が16倍もあります。35mmフィルムがA4サイズの解像度を持っているとしたら、シノゴはA倍判(A1の2倍)の解像度があることになります。その分、カメラも大きくなるので主にスタジオ撮影を行うコマーシャルや雑誌の表紙などで使用されていました。

依頼者の細かい指示やワガママな要求に振り回されることはよくあることです。そんな時は「もっと自由な仕事がしたい」などと思っていましたが、経験を積んでモノつくりの怖さを知り始めると具体的に指示のない自由な仕事が怖くなりました。同じように、初めて一緒に仕事をする相手に対しては距離感がつかめずに緊張したものです。
この時、私はT氏の人間としての迫力に気おくれがしていたかもしれません。

そんな状況に加えてこの時は先割(さきわり)で進行していたので、手元には写真原稿しかありませんでした。
先割はレイアウトを先に行い、文章はレイアウトに従って書くというものです。雑誌の巻頭の特集ページなどでは時間を争う場合が多いので先割で進行していました。従ってこの時のレイアウトの手がかりは写真原稿だけだったのです。

上で述べているようにT氏の持ち込んだ写真原稿は1シーンに対して1カットではなく、似たようなカットが沢山ありました。頼まれたことしか形にしないプロが多い中、T氏の意欲が嬉しくなりましたが、悩ましくもありました。使えない、使わないカットを省く作業は面倒だからです。ピントが甘かったり、テーマから視点のずれた写真であれば省くのは簡単ですが、T氏の写真はどれもがよく撮れたものだったので、不要なカットを省く作業は簡単ではなかったのです。

使用カットを選び終えるとその後の作業ははかどりました。よく撮れた(考えられた)写真原稿は見ているだけでストーリーが浮かび上がってきます。ストーリーが見えてくれば、レイアウトの構想(構成)はできたも同じです。あとは見えた通りに配置するだけでした。

仕上げたモノを提示する時に説明なしで意図が伝わることは稀なことです。図表や資料を添付して言葉巧みに説明しても伝わらない時(人)には伝わりません。そんな時は必ず余計な直しがあったり、トラブルになったりします。
ところがT氏は私のレイアウトを見るとすぐに「思った通りにできている」と言って喜んでくれたのです。その言葉でT氏との距離感が一気に縮まったような気がしました。彼の言葉は魔法の呪文でした。

コダクロームはいいよね ー飾りのない言葉には力があるー

T氏の言葉はT氏との距離を縮めてくれましたが、T氏にも記憶に残る言葉があったと聞きました。この稿を書き始めるにあたってT氏に会いに行って当時の話を確認してきたときのことです。あの時、あんなことを言った、こんな意味だったと話す内に時間はあっという間に過ぎていました。そんな会話の中でT氏は、
「コダクロームはいいよね」
と、当時、私がいった言葉が印象に残ったと語りました。すっかり忘れていましたが、そんなことをいったかも知れません。そんな背景が私にはありました。

【コダクローム(Kodachrome)】
サイモン&ガーファンクルを解散したポールサイモンが1973年に新曲「コダクローム」(邦題:僕のコダクローム)を発表し、全米ヒットチャートの第二位にランクされています。この頃はKodakフィルムが世界を席巻していました。

私が写真を始めた子どもの頃に住んでいたのが小さな街だったので写真屋さんは1件しかなく、そこには「富士フィルム製」のものしか置いてありませんでした。そして、まだまだ黒白写真が主流だったので、コダックとFUJIの色やテイストの違いを認識したのはずっと後のことです。プロのデザイナーとしてプロカメラマンたちと仕事をするようになってからのことでした。

コダクロームの色はやや暖色系で解像感が素晴らしかったのです。解像感が高いと得てして硬調な写真をイメージしますが、このフィルムの非常に細かい粒状性はまるでカラーのパウダーが包み込んだような柔らかさがありました。
当時の私はデザインの仕事が忙しくて写真を撮る間も無くなっていましたが、時間ができたら近所を散策しながらコダクロームを使ってシャッターを切りたいと思っていたのです。常々抱いていたその思いが、T氏の写真原稿を見た時に、
「コダクロームはいいよね」
という言葉になって、溢れ出ていたのでした。

出会いの時の何気ない言葉によって通わせたお互いの思いが、その後の長い付き合いの原点であり、すべてだったのだと思います。以来、T氏は『卓球王国』や「BREIYLING(ブライトリング)」、「鳴門Calendar」など色々な仕事で声をかけてくれるようになりました。『オーケー! ボーイ ーエディさんからの伝言ー』(以下、『オーケー! ボーイ』)はその中のひとつです。

卓球王国_ロゴ
【卓球王国】2005年2月号 ロゴタイプデザイン:島津義晴 『卓球王国』のロゴを描かせてもらいました。創刊時からしばらくの間、表紙デザインと本文エディトリアルも我が社で担当していました。
『TIME OF LEGEND ーTHE BREITLING INSIDERー』
『TIME OF LEGEND ーTHE BREITLING INSIDERー』 アートディレクター:島津義晴 デザイン:須藤康子+島津デザイン事務所 DTP:伊藤文治(B’s) 発行元:卓球王国 T氏は時計の仕事で活躍していました。特にブライトリング社とは密接に関わっていて、この書籍はそんな彼がもたらした大きな仕事でした。
2019.NARUTO PHOTO CALENDAR
『2019.NARUTO PHOTO CALENDAR』 写真:髙橋和幸 デザイン:島津義晴 DTP:島津デザイン事務所 発行:鳴門市 地域産業の活性化のために高橋氏が企画したもの。カレンダーができると生写真の展示会を行っていました。私はこの年より前から数年間にわたってデザインを担当させてもらいました。

エディさんの声が聞こえる

ここで『オーケー! ボーイ』に寄せられたT氏の後書きを掲載させていただきます。後書きにはT氏とエディさんとの出会いや写真を撮ることになった経緯とともに、エディさんの言葉の不思議な力のことなどが語られています。

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エディさんと知り合ったのは大学2年のときだったから、今から三十数年前のことだ。友人に誘われて行ったスナック、そこがエディさんの奥さん、通称・ママの営む「21(ドンピン)」だった。そこで、トレーニングを終えてお店に顔を出すエディさんと出会った。ジョークを飛ばし合ったり、一緒に草野球をする、僕にとっては“おもしろい外人さん”だった。ただ、不思議に惹かれるところがあって、ボクシングのことはほとんど知らない僕が、いつしか人間・エディを撮りたいと思うようになっていた。
実現したのはエディさんが亡くなる2、3年前。ママからお声がかかった。「撮るなら今だよ」。エディさんが癌(がん)に冒(おか)されていることがわかったそうだ。
どこにも発表するあてもなかったが、「撮りたい」という気持ちが自分の中で大きく膨(ふく)れ上がり、通常の仕事(商品撮影など)の合間に時間を作っては、エディさんのいる大阪や白浜に足を運ぶようになった。
エディさんの偉大さを知ったのは、エディさんの死後だった。葬式に訪れた人たちの知名度の高さに驚かされた。そして間もなくスポーツ雑誌やテレビのドキュメント番組などでもエディさんのことは取り上げられ、その度、僕の写真が使われた。そして、3回忌のときにはこれらの写真を一冊にまとめた写真集に仕上げることができた。
それから15年。エディさんの、あの不思議な日本語をまとめることになった。カタコトなのに妙に説得力がある。ハートのラブで教えたエディさんの言葉は、今の若者にもきっと伝わるはずだ。’04年11月16日、エディさんの記念碑が南紀白浜に建立(こんりゅう)された。除幕式に出席するために、久しぶりに白浜の砂浜に立った。
この本の86ページにあるエディさんの後ろ姿は、僕自身が気に入っている一枚。白浜で合宿中のときに撮ったものだ。エディさんの背中を眺めていたら、エディさんの歩んできたそれまでの人生を、その背中が語っているように感じた。
「エディさん、海の向こうはハワイですね」
「ソウ、でもボクはもう帰れない…」
その後ろ姿は少し淋(さみ)しそうでもあった。
この日、そのときと同じ場所に行ってみた。風景はそのときと少しも変わっていなかった。初冬にしては暖かい陽差し、太平洋の波がゆったりと沖から浜辺に向かっていた。遥(はる)か向こうの海と空のホライゾンに目をやった。
波間からエディさんの声が何となく聞こえてくるようだった。
「オーケー! ボーイ」と…。

ー『オーケー! ボーイ ーエディさんからの伝言ー』「エディさんの声が聞こえる」より

『オーケー! ボーイ』86ページ掲載の写真。
『オーケー! ボーイ』86ページ掲載の写真。撮影:髙橋和幸

この本の主役であるエディ・タウンゼント氏は藤猛、海老原博幸、柴田国明、ガッツ石松、友利正、井岡弘樹の6人の世界チャンピオンを育てたボクシングのトレーナーです。氏の他界後には、T氏が撮りためた写真によるエディ・タウンゼント写真集『OK! BOY』(21・ドンピン会)がつくられました。それより前、エディ氏には『ジプシー・トレーナー』(スポーツライフ社刊)という唯一の著作があります。この本は帯に「…名トレーナーの静かなる闘志<生の声>をここに収録!!」とあるように、エディ氏の「言葉集」でした。この言葉集から集めた言葉とT氏の写真を併せてつくったのが『オーケー! ボーイ』です。

エディ・タウンゼント追悼写真集『OK! BOY』
1990年05月01日発行
撮影:髙橋和幸 編集:大塚真理子
制作協力:平井寿雄、阿部博臣、檜皮陽子 印刷:中村精巧印刷(株)
発行者:21会 発行所:21会事務局

エディ氏の3回忌に出版されています。
『ジプシー・トレーナー』 ー青コーナーの叙事詩ー
1981年12月20日発行
著者:エディ・タウンゼント 発行所:(株)スポーツライフ社
印刷:壮行舎印刷(株) 製本:薩摩製本所
写真協力:東京スポーツ新聞社、デイリー・スポーツ、報知新聞社、週刊平凡

エディ・タウンゼント氏の唯一の著作。版元が見当たらなかったので古書店で購入しました。

T氏の脳裏にはいつもボクサーたちの心を奮い立たせたエディ氏の「魔法の言葉」があったと思われます。
関西での仕事帰りに、T氏が伊丹空港のサテライトで見かけた本がありました。彼はその本のこじんまりとしたサイズがエディさんの「言葉」を伝えるには似合っていると思ったといいます。彼はすぐに、エディさんの言葉と写真を併せた本をつくることにしました。女性が持つような小さなバッグに入れて持ち歩けるのがいいといっていました。しかも、価格は税込みの1000円にして支払いを簡単にしました。このあたりに、プロデューサーとしてのT氏を見る思いがしました。ー試行錯誤編へつづくー

本のデザイン 〜ボクシングトレーナー、エディさんの声を描いてみた 【試行錯誤編】〜はこちらから

ー【試行錯誤編】目次ー
私の事情 ー「他所(よそ)行きの文字」と「普段着の文字」ー
捨てる勇気
道具が育てる
見本通りにつくるのは楽だけれど…
言葉(念い)を文字にするということ
声を形にする ーダーマトグラフに決めたわけー
蘇ったあの時の言葉に励まされた