前置きが長くなりましたが、ここからがロゴつくりの話になります。
お寺と言えば「筆」。至極当たり前で代わり映えしませんが「筆字」でタイトルを描くことにしました。
筆でタイトルを描く
私にとって「毛筆」は「書道」のそれではなく「筆字」=「筆で書く字」という意味です。違いは王羲之などの書家の文字を手本にしていないことです。私が手本にしたのは「謄写版印刷の文字」なのです。つまり、「活字」と言っていいかと思います。活字は四角い箱に詰め込まれた文字です。本文を書き連ねるには適当な文字と言えますが、面白みがありません。だから、タイトルだの見出しだのを描く時は箱から解放される身になって描くようにしています。そんなコンセプトで筆字に挑戦しました。
※このサイトのタイトルである「筆まめブログ」が謄写版文字を真似てペンで書いたものです。当初はタイトルらしくロゴタイプをつくったのですが、私の「文字書き」の原点なので地味ですが謄写版風の文字にしました。
タイトルを考えた時、「養源寺報」では説教くさくて誰も読んでくれないような気がしました。そして、この冊子は本堂の建て替えに協力してくださった篤志家の方々への感謝の気持ちを込めたメッセージです。上から目線になってはいけません。なので「養源寺」をかな表記にしました。
「養源寺」を「ようげん寺」と表記しただけで既にオリジナリティがあるために、どのように描いても個性豊かになります。慣れない筆字のハードルが少し低くなったような気がしました。
これが出版社の雑誌であったりすると、編集会議で決まったタイトルを描くことになるのでそのようにはできませんが、ありがたいことに、この冊子は私が全てを委ねられていたのでそれができました。有難いことです。
私は「謄写版印刷」の硬筆を学んだので筆字を描くようになって毛筆特有の難しさが分かるようになりました。硬筆が二次元的な場を舞台にするのに対して、筆字は四次元的な場が舞台だからです。
硬筆は用紙の上をX軸、Y軸で動いて形を表し、筆字はそれに高さ(Z軸)が加わります。要素がひとつ加わるだけで2乗、3乗も難しくなります。
日常で「硬筆」といえば、鉛筆、ボールペンがあります。用紙やインキの硬さ、鉛筆の芯の硬さなどを一定にした場合、書かれた線の太さは常に一定です。打ち込みや止めなどでも太さが際立って目立つことはありません。◯×□縦線、横線を描いても表情は淡白です。
一方、筆字は硬筆の二次元的な場(X軸、Y軸)に高さ(Z軸)が加わり、「打ち込み」「止め」「ハネ」などの表情になります。さらにそこに「時間(速さ)」が加わり四次元的な場になります。例えばそれは「滲み(にじみ)」などになって現れます。このように筆字は膨大な情報量を孕んでいるのです。
また、鉛筆の場合の芯の硬さやボールペンの場合のインキの伸びなどが表情に乏しいのに比べて、筆字の「墨」はそれだけで膨大な情報量を持っていて、筆と墨の組み合わせで得られる表現領域は言葉で言い表せません。さらに半紙を加えると表現の領域は無限大にまで拡がります。
毛筆で表現するというのはそうした膨大な情報量をコントロールするということなのです。それが筆字を難しいと思ってしまう理由です。
なぜ、毛筆の強みである「滲み」をなくしたか
『ようげん寺報』のタイトルの場合は素朴さを出すために滲みの無いものにしようと思いました。滲みはどうしても技巧(外連・けれん)を感じさせ、または高級感を演出してしまいます。言い換えれば「俺は偉いぞ」「かっこいいだろう」と言うような雰囲気を醸し出します。また、カスレも最小限度に留めようと思いました。カスレはスピード感、力感が出てきて偉そうでなくても力強さが威圧感につながりそうだったからです。
従って、墨汁を使って使い古したちびた筆で描くことにしました。滲みを抑えるために半紙は使わずにコピー用紙に描きました。
筆字は上述のように表現の幅がとても広いのでまずは二次元的に満足のいく形になるまで描き続けます。ここで文字の骨格をつくりあげます。
イメージに近い形が見え始めてくると清書にかかります。
清書と言っても一枚では終わりません。四次元的表現を完璧にするにはそれなりの熟練が必要です。「これが最後」のつもりを繰り返します。エンドレスになることもあります。しかし1枚(一瞬)でできる時もあります。それが毛筆です。
一時期、米英で「書」が芸術と認められないと書家がコメントしていましたが、この「一瞬にできる」と見えていることが彼らを惑わしていると言えます。「書」は油絵に勝るとも劣ることはありません。紛れもなく「芸術」です。
「ようげん寺報」では、併わせて50枚以上の用紙を使うことになりました。