温故知新!アイディアのヒントが得られるかも…

雑誌のロゴタイプ『ミステリマガジン』の場合【打ち合わせ編】

友だちの友だちの…

『ミステリマガジン』の編集長S氏が私を訪れたのは1979年のことです。ベージュのブレザーをまとったS氏は言葉使いも柔らかく人あたりの良い物静かな「紳士」でした。後に知ったのですがS氏は英国へ研修に行ったことがあるそうです。伏せ目がちに嬉しそうに語ってくれました。その事もあり、私はS氏を紳士と思い込んだのかもしれません。その時のS氏は40歳くらいだったでしょうか。目が悪いのはメガネのレンズが牛乳瓶の底のように見えることでわかりました。
そのS氏は、私の友人のKくんが引き合わせてくれました。Kくんは『SFマガジン』を担当していて、恐らく気の合う仲間だったのではないでしょうか。

Kくんは私を出版業界で仕事をできるようにしてくれた恩人です。アルバイトで知り合いました。彼は私より3〜4歳年長で、当時、早稲田大学の4年生だったと思います。アルバイトは清掃業で池袋のデパートや役所などのガラス専門に清掃していました。
ガラス部門には若者ばかりが集まっていました。画家を志す者、ボクサーを目指している者、建築家になるためにお金をためている者、そしてKくんがいました。Kくんは新聞社か出版社に入りたいと言っていました。

好きなことを仕事にする

Kくんはすごい読書家でした。昼休み中に喫茶店で200〜300ページの文庫本一冊を読み終えてしまうくらいです。特にSFが好きだったせいもあって早川書房に就職したのだそうです。Kくんが就職してからは疎遠になっていましたが、頻繁に会うようになったのは私がデザイン会社から独立した頃からでした。
Kくんは念願の早川書房に入社したあと研修期間(倉庫係だと言っていました)を経て、SFマガジン編集部に配属されました。少し余裕ができた頃になると、私にカットや挿絵の仕事を回してくれるようになりました。とは言っても、原稿料で食べられるほどに仕事量は多くありませんでした。この頃は私の人生でどん底の時代です。お金も仕事も無かったのです。そんな状況に風穴を開けてくれたのはKくんでした。

話が前後しますが、私が前に勤めていたデザイン会社の社長は描き文字で仕事を増やした人でした。そんな関係で勤めていた出版社を辞めて転職したのですが、社長は昔気質の人で使い古した烏口を一本くれただけで文字の描き方などは一切教えてくれません。不満を言っても始まらないので、私は家に帰ると描き文字の練習をすることにしました。描いた文字はB全判パネルに貼り付けていきました。成果を目にすると意欲は長続きします。
その頃を思い出すと背筋が寒くなるほどの貧乏生活でした。好きなことだから続けられたと思います。その上、私はデザイナーを志した時から、デザイナーになることを一度も疑ったことはありませんでした。そんな思いが通じたのか、描き文字がパネルの約3分の2ほどを埋めた頃にしばらく会っていなかったKくんから電話がありました。仕事の依頼です。Kくんの友人の仕事でした。

英式両線引烏口
1970年頃になるとドイツ式の製図用具が流行し出すが、
私は英式が好きだった。

この仕事で不思議なことがありました。文字の練習をしていて、どうしても描きあげた紙面が白く見えませんでした。社長が描いた文字は漆黒で用紙は純白に見えるのです。それだけで惹きつけるものがありました。私の描いたものはどんよりと眠く見えていました。素人芸なのです。ずっと気にしていました。ところが、依頼されたタイトルを描きあげると、その文字は漆黒で用紙は純白に見えたのです。
練習の時には無かった責任感や意欲が「緊張感」や「集中力」を生み出してくれた結果でした。

Kくんの友人から仕事が評価されると、雑誌のタイトルや表紙のデザインなどの仕事が増え始めました。文字が描けてデザインができるデザイナーは少なかったので重宝がられたのです。ようやくプロらしい仕事ができるようになりました。
私は外に出る営業はしませんでしたが、編集者や営業の人に話を持ちかけては仕事を増やしていきました。仕事量も売り上げもこれでいいという線はとっくに超えていたのにです。それはお金の問題ではなく、仕事がなくなることへの恐れであり、仕事ができることの喜びのあらわれでした。スタッフも増えていきました。その頃の私をKくんは、
「高度成長」
と、嬉しそうに冷やかしていました。
ちなみに日本の高度成長期は1970年代半ば頃に終わっていて、この頃にはバブル期が迫っていたのです。Kくんが私とS氏を引き合わせることにしたのは、日本も私も右肩上がりの頃のことでした。

『ミステリマガジン』1979年6月号表紙 早川書房
表紙:真鍋博

S氏はメガネのブリッジを人差し指で押し上げると、「表紙を変えたいのです」といい『ミステリマガジン』をテーブルの上に置きました。ひと目で「タイトルが小さい」と思いました。この時、私にいくつかのアイディアが出ました。そんな私の頭の中とは関係なく、S氏は「ミステリー」ではありません、「ミステリ」ですと言い、「HAYAKAWA’S MYSTERY MAGAZINE」ですと言って、慣習で「ミステリー」と言ってしまう私をたしなめているようでした。それは好ましい忠告に聞こえました。そして、それは後々、活かされることになるのです。

打ち合わせに入ってからもS氏から特別な指示や要望はありませんでした。S氏は、
「雑誌の表紙はシンプルであまり変えない方がいい」
と一般論を述べると、『週刊新潮』の表紙などを例にして語ってくれました。
あとで考えるとそれが「コンセプト」だったのです。